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革新、武田家滅亡

1575年、同盟が切れると同時に、躑躅ヶ崎館から深志城に向け、信長自ら1万余の鉄砲隊で攻めた。

信玄は、1574年から1575年までの間に死亡していた。残念。(実際は、ホッとした。)

信玄を継いだ勝頼は、海津城から深志城に数万の兵を繰り出してきたので、躑躅ヶ崎館からさらに1万近くを援軍に。

何とか攻略したが、箕輪城に逃げ込んだ勝頼等を信長は鉄砲騎馬で追った。
岩槻城、宇都宮城からも箕輪城攻めを開始していたが、苦戦。

信長が何とか間に合って、箕輪城にて武田を滅ぼす。

勝頼始め、多くの有能な部下を手に入れた。

1577年夏、謙信との同盟も切れ、初めての対戦となる。
この年、関白を拝命したが、何か効力あるのかな?
名声は、1000を越え、武田の有力武将が大人しく信長に就いた。

西は、信忠に委任しているので、信長は、上杉約50万を相手にするだけだ。

謙信の寿命は、いつだ?
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